お薦めの国産ウイスキー

ウイスキーの到来[編集]

日本にはじめてウイスキーがもたらされたのは、江戸時代末期のマシュー・ペリー来航の時と考えられている[15]。1853年7月、浦賀の奉行や通訳がサスケハナ号で歓待された時、ウイスキーが振る舞われた[16]。将軍徳川家定の元にウイスキーが献上された記録も残るが、実際に飲まれたかどうかは不明である[17]日米修好通商条約締結後、1859年より条約港の開港が行われると日本国内に外国人居留地が誕生し、外国人居留者のためにベーカー商会、タサム商会などがウイスキーの輸入を行った[18]。1860年に開業した日本初の西洋式ホテル・横浜ホテル内のバーではウイスキーも出されていたという[17]。1871年に横浜山下町のカルノー商会が輸入した「猫印ウヰスキー」[注 2]が、最初に日本人用として輸入されたウイスキーだとされている[18]

明治期の日本では本格的なウイスキーは製造されておらず、薬種問屋で製造されていた調合ウイスキー(模造ウイスキー)が国産品として出回っていた[19]。調合ウイスキーとは、関税率が低いために廉価で入手できる外国製の酒精アルコール[注 3]を使用し、これに砂糖香辛料を加えたものである[19]。明治時代当時は酒類も薬とみなされており、小西儀助商店(現在のコニシ)、橋本清三郎、神谷伝兵衛などの大手薬種問屋をはじめとする、数々の業者が生産を手掛けていた[19]。明治政府は日本酒の製造者を保護するため、混成酒税法(1896年施行)、酒精及酒精含有飲料税法(1901年施行)によって調合ウイスキーの流通を抑制しようと試みた[20]。1911年に締結された日米通商航海条約で日本が関税自主権を回復すると外国製の酒精アルコールに高い税率がかけられ、代わって国産の酒精アルコールが台頭する[21]

明治末から大正時代にかけて、日本でも本格的なウイスキーを造ろうといくつかの酒造会社が行動を起こした[21]。酒精アルコールのメーカーである摂津酒造の社長・阿部喜兵衛、常務・岩井喜一郎は技師の竹鶴政孝ウイスキーの産地であるスコットランドに派遣し[21]、摂津酒造の得意先の一つであった寿屋洋酒店(のちのサントリー酒類)の創業者鳥井信治郎はウイスキー製造のための蒸留所建設を考えていた[22]

鳥井信治郎と竹鶴政孝[編集]

竹鶴政孝の胸像

鳥井信治郎と竹鶴政孝はジャパニーズ・ウイスキーの歴史に触れるうえで欠かせない人物である。

鳥井信治郎[編集]

鳥井信治郎は小西儀助商店での丁稚奉公を経た後、1899年に独立して鳥井商店を設立した[22]。最初は調合ウイスキーの販売とともに[23]、洋酒の輸入販売を行ない、スペインから輸入したワインを瓶詰にして売り出していた。しかし、ワインは当時の日本人の口には合わず、評価は芳しくなかった[24]。1906年に社名を寿屋洋酒店に変更し、翌年にポルトガルワインポートワイン)をもとに独自開発した「赤玉ポートワイン(現在の赤玉スイートワイン)」を販売して成功する[22]。ところが鳥井は赤玉ポートワインでの成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であった。

鳥井は模造ウイスキーである「ヘルメスウイスキー」「トリスウイスキー」を発売するが、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画する[22]。しかし、ウイスキーの生産はスコットランドやアイルランド以外の地では不可能だという意見、蒸留所建設のために莫大な資金を投入するリスクを理由として、社員、スポンサー、学者たちからは反対の声が多く上がる[24]

竹鶴政孝[編集]

竹鶴政孝が摂津酒造に入社したのは1916年のことである[21]。1918年にスコットランドに渡り、グラスゴー大学で学びながら、いくつかのウイスキー蒸留所で見学、実習に参加した[25]。最終的に竹鶴はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所に2,3か月滞在し、ここで実習を経験する[26]。竹鶴はヘーゼルバーンで学んだ同地のウイスキーの性質、製造工程、蒸留所の経営システムなどを帰国した1920年に、2冊の大学ノートにまとめ上司であった岩井に“実習報告書(=竹鶴ノート)”として提出した[27][注 4]

しかし、第一次世界大戦の終戦に伴う景気の停滞、アメリカでの禁酒法実施による飲酒意識の減退、株主からの反対のため、多額の資金が必要とされる蒸留所の建設は困難になる[28]。なおも竹鶴は本格的なウイスキーを造る夢を捨てきれず、1922年に摂津酒造を退職した[28]

山崎蒸留所の建設[編集]

大正に入って鳥井は蒸留所建設のため、スコットランドから技師を招聘しようとする[22]三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴が帰国していたことを知る[22]。鳥井と竹鶴は旧知の仲であり、竹鶴が摂津酒造を退職していたことを知った鳥井は、1923年に4,000円の年俸、10年の契約期間を条件として竹鶴を寿屋に招聘した[29]

当初蒸留所の位置については鳥井と竹鶴の間に食い違いがあり、鳥井は消費地である都市圏に近い場所を、竹鶴は北の大地に建設することを考えていた[30]。調査と議論の末、大阪府島本村の山崎の地に日本初のウイスキー蒸留所の建設を決定した[30]。山崎はかつて千利休が茶室を設けた場所であり、水質の良さと3つの川(宇治川木津川桂川)が合流するために霧が立ち込めている立地がウイスキーづくりに適していたのである[31]。1924年に山崎蒸溜所が完成、その年の冬から蒸留が開始される[32]

国産の大麦、イギリスから取り寄せたピートを使用して、1929年に日本初の国産ウイスキー「白札」(現在のサントリーホワイト)が売り出される。価格は1本あたり4円50銭と、ジョニー・ウォーカー黒ラベルデュワーズといった輸入品のウイスキーと比べても遜色が無かった[33]。しかし、「白札」に含まれていたスモーキーフレーバーは、ウイスキーに馴染みのなかった当時の日本人からの評価は「煙臭い」と芳しいものではなかった[34][35]

鳥井はさらにウイスキーの改良に取り組み、1937年に改良の成果である「角瓶」(サントリー角瓶)が発売され、消費者から好評を得た[36]。1940年に「サントリーウイスキー黒丸」(現在のサントリーオールド)が誕生するが、大戦直前という情勢のため、市場に出荷されるのは第二次世界大戦終戦後の1950年となる[36]

寿屋は戦禍によって大阪工場を失うが、山崎蒸留所の原酒は被害を免れた[37]

東京醸造の参入[編集]

1924年に枢密顧問官武井守正男爵、実業家中村豊雄によって設立された東京醸造株式会社は神奈川県藤沢市の工場でイミテーションウイスキーなどの洋酒を製造していたが、ポットスチルを導入してモルト原酒の蒸留を開始し、1937年に本格ウイスキー「トミー・モルトウィスキー」を発売した。1940年にはサントリー、ニッカとともに1級ウイスキーの指定銘柄品として商工省および大蔵省から公示された[38]

なお、戦後も姉妹品の「マルトンウィスキー」などを発売したが1953年の級種別変更以降の第一次洋酒ブームで同業他社との競争に敗れ1955年に倒産した。工場は最初壽屋 (現サントリーホールディングス)が買収し、のち森永醸造株式会社(現・福徳長酒類株式会社)に渡ったが1960年代後半に閉鎖された[39]

大日本果汁の設立[編集]

1934年、竹鶴は寿屋を退職して大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)を設立する。このとき竹鶴は立地、地価、安価な労働力を期待できる北海道余市町余市蒸溜所を建設した[40]

1936年から余市でのウイスキー蒸留が始まり、1940年に「ニッカウヰスキー」と名付けられたウイスキーが発売される。第二次世界大戦時には余市蒸溜所で日本軍の兵士に配給される酒類が醸造され、蒸留所は配給品の買い上げによって利益を得た。戦後の余市蒸溜所では、軍事用に供給された物資が使われた[40]

戦後のウイスキー市場[編集]

ハイボール

戦後間もない頃は日本人が国産のウイスキーを口にする機会は少なく、もっぱらアメリカ軍と軍関係者のために供されていた[41]。鳥井はGHQに自社製品のウイスキーを売り込み、将校たちから好評を受けた[42]。日本の戦後復興に伴い、ジャパニーズ・ウイスキーの品質と国内需要は上昇する[37]。1946年、寿屋は戦災を逃れた原酒を使用した「トリスウイスキー」を、1950年には戦前に製造した「オールド」を発売する。

昭和30年代に東京や大阪を中心としてトリスバーが続々と開店し、カクテルハイボールが人気を博した[37]。1952年に大日本果汁は「ニッカウヰスキー」に、1963年に寿屋はサントリーに社名を変更した。1955年に大黒葡萄酒(後にメルシャンが買収)が軽井沢に蒸留所を建設した。1960年に本坊酒造は、岩井を招き「竹鶴ノート」をもとに山梨で本格的なウイスキー生産(現マルスウイスキー)を始めるが売上は芳しくなく9年後に一時撤退した。

また1950年代までの日本ではモルトウイスキーのみが生産されている状態だったが、1962年にニッカウヰスキーと関連の深い朝日酒造(アサヒビール子会社)がカフェ式連続蒸留機を導入し本格的にグレーンウイスキーの生産を開始[43]。1969年には三楽酒造(現・メルシャン)も川崎工場にてグレーンウイスキーの生産を開始したほか、1973年にはサントリーも関連会社のサングレインでグレーンウイスキーを生産するようになり、スコッチ・ウイスキー同様にモルトとグレーンという2種類のウイスキーをブレンドした本格的ブレンデッド・ウイスキーを生産する体制が整った。

高度経済成長期に日本国内でのウイスキーの消費量は増加し、1980年にサントリーオールドは年間出荷量12,000,000ケース突破という世界記録を樹立した[13][44]。しかし、1980年初頭を境に日本のウイスキー市場は停滞する[45]。80年代からの停滞期に、日本の酒造メーカーは様々な試みに取り組み[45]、こうした中で、日本各地の酒造メーカーが生産する地ウイスキーが人気を博した[44]。また、酒税の変更によってウイスキーの価格が下がり、消費者が手に取りやすくなる[14]

1980年代から2000年代にかけて年ごとにウイスキーの消費量は下降したが[46]、2009年にウイスキーの消費量が回復に向かう[47]。1980年代後半にシングルモルト・ウイスキーが世界的に流行し、遅れて1990年代後半から日本の愛好家の間でもシングルモルト人気が起こる[48]

2010年代中頃から海外でのブームと国内でのハイボールの人気が重なり、大手でも原酒が不足するようになっている[49][50]。2018年にサントリーは『響17年』と『白州12年』の販売を休止することになった[50]。販売の再開時期は未定[50]

ウイスキー

ウイスキーウイスキー

サントリー山崎 12年

サントリー白州 12年

ウイスキー

サントリー響 17年

ウイスキー

サントリー響 21年

ウイスキー

ニッカウイスキー余市

ウイスキー

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