首里城
守礼の門
北殿
北殿はかつては北の御殿(にしのうどぅん)、議政殿(ぎせいでん)とも呼ばれていた。
創建は1506~1521年頃とされ、記録によると1709年の首里城の大火で他の建物とともに焼失し、1712年頃再建された。通常は王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていた。北殿は南殿・番所同様、鉄筋コンクリート造として外観を木造で復元している。館内では、パネルなどで首里王府の位置やしくみ、冊封式典(さっぽうしきてん)などを解説し、映像による展示も行っている。
女官居室
御内原(おうちばら)で勤める女官たちの居室である。御内原は国王やその親族等限られた男性以は立ち入ることのできない男子禁制の空間であり、御内原で仕える女官たちは首里城内に住み込みで暮らしていた者たちと、通いで勤める者たちとがいた。国王の身の回りの世話やさまざまな「奥」の職務を行う女官たちを総称して城人(ぐすくんちゅ)といい、城人は身分に関係なく器量に優れた女性が選ばれていたという。
湯屋
女官たちの浴槽
世誇殿(よほこりでん)
国王が死去したとき、王位継承者である世子(せいし)が即位の礼を受ける建物である。
平常は未婚の王女の居室となっていた。
寄満
国王とその家族の日常の食事を調理したところ。包丁(料理人)あがま(女中)御水使(おみずつかい)下代とよばれる人たちが働いていた
御庭(うなー)
「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。
正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には磚(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。
中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された。
正殿
正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物であった。
正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式といってよいだろう。
首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られている。なお、下地の一部は漆である。
上御茶の間御飾
1階御差床
首里城正殿の遺構
おせんみこちゃ
正殿3階
唐破豊(からはふ)
2階御差床 国王が座る玉座。
御差床背後の障子戸を開くと、奥に国王専用の階段(おちょくい)がある。国王はその階段を使って2階から御差床に出御した。御差床左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されている。
なお、国王の椅子については、1477年~1526年まで在位した尚真王の御後絵(肖像画)をもとに再現したものである。2階にも1階と同じ場所に御差床があるのは極めてめずらしいと言われている。特に2階の御差床は絢爛豪華(けんらんごうか)な意匠となっている。
苅銘御嶽 (かわるめうたき)
御嶽とは聖地・拝所の総称
黄金御殿庭園
御内原
王妃 王夫人 王妻 の他に13歳前後の独立する前の王子 結婚前の王女 王の母親 王の祖母などが居住していたところ
鈴
御内原側から御庭側への取次の時に使われた
表(行政)空間と内(居住)内空間の取次
ここが通路であった
近習詰所
表(行政)空間と内(居住)内空間の取次
扉を開ける紐
鎖之間
お茶とお菓子を味わいながら往時の雰囲気を楽しめます
310円お菓子付き
9:30~18:00(ラストオーダー 17:30)
書院・鎖之間での説明
さんぴん茶 ジャスミンティーがなまった
出てくるお菓子
ちんすこう
ちいるんこう
くんぺん
花ぼうる
書院
御書院 国王が日常の執務をおこなっていた
内炉之間 茶室として使われており、お茶を点て て客人に振る舞っていた。
御茶之間 茶道具一式が用意されていた場所
鎖之間
御鎖之間 王子が薩摩の役人を接待した部屋
裏御座 茶室として使われていた
御庭(うなー)